bakaさん:
頻発する自作自演テロや、事故や怨恨に見せ掛けた暗殺など、あっしらサンには分析/投稿でお忙しい毎日とは思いますが、思いついたが吉日ということで、その6です:
最近、あっしらサンの投稿に「供給=需要」という記述が時折出ますが、この意味について御解説下さい。
重要なポイントを質問に設定していただきありがとうございます。
「供給=需要」は、経済を認識するための根幹的視点だと考えています。
まず、供給=需要であって、需要=供給ではないということがポイントです。
供給→需要(プッシュ)であり、需要→供給(プル)ではないと言い換えたほうがわかりやすいかもしれません。
現在もそうですが、ちょっとでも景気が悪くなると「需要が足りない」という分析が行われ、財政出動を求める声が沸き上がります。
確かに、商品が売れない、お客がやってこないという経済状況は、需要不足を示すものです。
デフレも、供給に較べて需要が少ない、供給>需要というギャップ状態が拡大することで起きる経済事象です。
じゃあ、なぜ、「供給=需要」や「供給→需要」という考え方を持ち出すのかという疑問を提起されるかもしれません。
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“供給=需要”は「近代経済システム」を考察する根幹 投稿者 あっしら 日時 2002 年 10 月 30 日
● 「近代経済社会」の特質
これは、「近代経済社会」の特質に直接関わることです。
「近代経済社会」は、普遍的とも言える貨幣経済社会です。それと同時に、自給自足的な生活を営んでいる人々は無視できる存在であり、生産手段を保有している人の割合も極端に低い経済社会です。
貨幣経済でありながら、商品を生産するための生産手段を保有していない人の割合が高いということは、ほとんどの人が生存のために必要なお金を手に入れるために自身の活動力を販売しなければならないことを意味します。
逆に見れば、生産手段を保有している側が生産した商品をきちんと販売するためには、それを購入できるだけのお金を持っている人たちが必要だということになります。
自分の活動力を販売できるのは、その活動力が購入する人(企業)にとって有用だからです。そして、「近代経済社会」で有用だと判断される基準は、それによって資本(お金)が増えるかどうかです。
活動力を販売するということは、商品やサービスの供給活動に従事するということです。
90%の人が活動力を販売することで生活を維持しているとしたら、供給活動が順調なのか不調なのか、そして、90%の人が手に入れるお金の量がどうなるかが経済社会の変動を規定するのは当然です。
通貨がどれだけ供給活動に投入されるかによって需要がどうなるかが決まるというのが「近代経済システム」であり、通貨は、基本的に、供給活動を通じて経済社会に流通するものなのです。
これが、「供給=需要」ないし「供給→需要」であるという基本的根拠です。
● 需給に関する物理量的評価と通貨量的評価
供給や需要を考えるときに重要なのは、それらがともに物理的量と通貨的量という異なる評価基準で計れるということです。
「供給=需要」というときの視点は、通貨的量に向けられています。
「供給=需要」であれば、物価変動が起きる要因は、同じ金額(資本)を投じて産出された商品の物理的量の変動になります。
「供給=需要」ですから、供給活動に1兆円が投入され、投入された1兆円が需要に向かうことになります。(ある期間の総和ですから、需要は、原材料や生産財といった供給と一体のものもあれば、それらと活動力が結合して生産される最終消費財に対するものとがあります)
需要としての通貨は、供給活動者に支払われるものなのですから、1兆円は供給側に戻ることになります。(この意味でも、「供給=需要」です)
ある時点で供給活動に1兆円を投入して産出される商品の物理量が10億個だとすると、平均物価は1000円になります。
数年経過して生産性が上昇したことにより、同じ1兆円を投入して産出される商品の物理量が20億個になると、平均物価は500円になります。
(現実には、いくら価格が安くなったといっても、ご飯を10杯食べたり、テレビを家族数以上に設置するというわけではないので、生産される商品の種類やその構成比は変わりますが、そのような調整が供給側で行われていると仮定して説明しています)
これは、物価変動の根源的要因が生産性の変動であることを意味しています。
物価変動を貨幣現象や需給論理で説明することは、表層的なものでしかなく、本質を見失っていると言えます。
(私は、生産性を「労働価値」と呼んでいます)
「近代経済社会」は、生産性の上昇が常に追求される経済社会ですから、常に物価が下がるデフレ圧力を受けていることになります。
● インフレが常態であった戦後世界
金本位制の時代は景気変動に従ってインフレとデフレが交互に出現する経済社会でしたが、戦後世界で象徴的な管理通貨制では、インフレが常態とも言える経済状況が長く続きました。
いわば、「近代経済社会」は生産性の上昇によって常にデフレ圧力を受けているというのが虚妄であるかのように見える歴史過程だったわけです。
インフレになるということは、「供給=需要」ではなく、「供給<需要」という経済状況を意味します。それも半端な「供給<需要」ではなく、商品の物理的な量の増加を意味する「労働価値」の上昇ペースを上回る「供給<需要」だということです。
先ほど例示したものを再掲すると、
ある時点で供給活動に1兆円を投入して産出される商品の物理量が10億個だとすると、平均物価は1000円になります。
数年経過して「労働価値」が上昇したことにより、1兆4千億円を投入して産出される商品の物理量が20億個になっても、平均物価が1200円に上昇するという経済事象です。
(財の物理量も一体である「供給=需要」であれば、平均物価は、1兆4千億円/20億個で700円に下落するはずです)
このような物価変動になるということは、「供給=需要」ではなく、「供給<需要」であることを意味します。
そうであるならば、なぜ、供給を超える需要が生まれるのかを解き明かさなければなりません。
先ほど、「通貨は、基本的に、供給活動を通じて経済社会に流通するもの」という説明を行いましたが、これは、消費(需要)に回らない通貨は想定できるので「供給>需要」はあり得ても、「供給<需要」はあり得ないことを意味します。
★ 供給の物理的量の削減
通貨が供給に投入された量を超えて流通することがないとしたら、「労働価値」が上昇することで供給量が増加しても物価が上昇する要因は、産出された商品が全部は国内に供給されないことです。
先ほどの例ですが、数年経過して「労働価値」が上昇したことにより、1兆4千億円を投入して産出される商品の物理量が20億個になっても、平均物価が1200円に上昇する事象は、生産された商品20億個のうち8.4億個は輸出されて、国内には11.6億個しか供給されていないとすれば合理的な説明ができます。
供給活動に従事している人は国内で消費活動をすると考え、「供給=需要」であれば、1兆4千億円はまるまる国内の需要となります。そして、需要は、物理的に供給される商品やサービスに向けるしかないわけですから、商品が輸出されることで、物価は上昇することになります。
これは、供給側にしてみれば、供給活動に投じた資金(資本)は国内の需要でまるまる回収し、輸出はまるまる利益ということを意味します。
そして、輸出で稼いだ通貨は、円に転換されることで通貨量の純増になります。
国民経済に占める輸出比率が「労働価値」の上昇ペース以上に増加していけば、「供給=需要」でも、物価は上昇していくことになります。
★ 通貨量の増加
供給量の減少で「供給<需要」が実現されるだけではなく、通貨量の増加でも「供給<需要」が実現されるはずです。
しかし、「通貨は、基本的に、供給活動を通じて経済社会に流通するもの」ですから、その原則が通用する状況をまず説明します。
輸出が増加基調にあれば、輸出で稼いだ利益のみならず借り入れまで行って生産(供給)力増強に投資することになります。(管理通貨制では、通貨の供給量は価値実体的な制約を受けないので借り入れ需要に対応した通貨供給量の増加が可能です)
生産財などへの投資は需要そのものですから、「供給=需要」で「供給<需要」にはつながりませんが、輸出向けの財の供給活動に従事する人々の給与が新たに追加されるので、「供給<需要」につながることになります。
先ほども書きましたが、国内に供給されない商品を生産している人々の支払われる給与も、国内の需要となります。
もう一つは、輸出で稼いだ利益を従業員に還元するかたちでの「供給<需要」の実現です。
同じ「労働価値」(生産性)もしくは「労働価値」の上昇ペースを超える率で給与を上げれば、商品の供給量は同じでも需要金額は増加することになります。
新たに追加した給与や引き上げた給与額以上に輸出が増加すれば、それでも、供給側は利益を拡大できます。
7/5/20
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