https://twitter.com/#!/anmintei
> こんなとんでもないタイトルの本が出版されてたんだ・・・直接読んでいないけど、主語は要るか要らないかじゃなくて、そこにあるものだと思います。 金谷武洋『日本語に主語はいらない』
http://t.co/7D3ojCKO
日本語に「主語+述語」を適用するのは間違いだ、というのは、言語学の通説だと思います。
> えええええええ!?!?5W1Hとしての動作主体が!?!?衝撃が凄過ぎます。
日本語は、用言を中心とした対話が基本。
「食べる」という用言の「主語」には、「私<が>食べる」と「私<は>食べる」があって、前者は「誰が食べる?」の、後者は「あなたは何するの?」に対する返事と理解するのが正しくて「主語+述語」で主語が二種類と見るのは変。
本居宣長が日本語を分析して、動かない「体言」と動く「用言」とに分けて、古代においては用言が中心で、体言は少なかったものが、徐々に体言が増えていった、と指摘しています。
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> 言語以前に、動作主体がある現象については、動作主体が存在しますが、言語において、日本語に英語の「主語+動詞」の形をぴったり当てはめるのは無理がある、と思います。
「<去る主体>が去る」ということが、どうして成立しうるのであろうか。
<去ること>なしには<去る主体>は成立しないのに。
(龍樹『中論』2?9)
> すみません、主語が二種類という意味がわかりません。前者と後者は、主題の違い、ではないのですか?
「私は」と「私が」とは、根本的に違うので、両方を「主語」と呼ぶことに意味がありません。
> 「私」=主語、「は」「が」=助詞、と理解しています。「私+は、が」も、「食べる」に対する色々な意味の限定のひとつ、としか思えません。
「おいしく食べる」「ご飯を食べる」「私が食べる」「私は食べる」「あなたと食べる」「みんなで食べる」「木陰で食べる」など。
> その感覚でいると、先生の魂が救われない気がします。体言や用言に貴賤はないです。
> 安冨先生は、「私は」と「私が」を主語と呼ぶことに違和感を感じますか?日本人の大多数は感じないのだとしたら、とても大きなことです。
「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。」主語どれ?
> 主語は「流れ」。用言の名詞形が主語になっている点が興味深いです。
「流れ」が主語だと、「もとの水にあらず」と繋がらないのでは?
> 流れはもとの水にあらず、流れは常にもとの水ではない、かと。
「流れは・・・水ではない」って意味不明。
> もとの水、を伴って意味を為します。河の流れは絶えることがなくて、しかも、もとの水ではない、留まる水ではなく、常に新しい水が流れてゆく。
もちろん名文で、意味を成しています。
しかし、「流れ」を主語だと思い、「水ではない」を述語だと思うと、意味をなさなくなる、という趣旨です。
そういうふうに考えてはいけないのです。
>中所 宜夫: 横から失礼します。「主語はいらない」という事は、古語での会話を日々体験している者には、当たり前ですが、それを飲み込むのに抵抗感がある事に、色々考えさせられます。現代日本語は、欧米語の外套を纏う事で出来てきたように思えます。
おお。
能楽師さん。
その通り、日本語には主語なんていう概念はないですよね。
現代語は古語からすると、ずいぶん、変な言葉になってしまいました。
> 私は、主語が無いと私という自我を奪われるようでとても恐ろしく震えてしまうのです。文法としての主語の有無以前に「動作の主体」は存在しますよね?主語が無くても成立することが、日本人の在り方を規定している部分もあると思うのです。
>中所 宜夫:言葉には主語と述語が揃っていないと不完全だ、というのは、欧米語中心思考による思い込みのようです。現代日本語が古語と著しく違っているのは、欧米語を学ぶ事によって、その文法構造を日本語に導入し、主語述語の不明確なものを非論理的と退けて来たせいでしょう。それをお二人のやり取りを見ていて、改めて確認しました。有難うございました。
「主体」という考え自体が、問題なのだと思います。
「つれづれなるまゝに、日ぐらし硯に向かひて、心にうつりゆくよしなしごとをそこはかとなく書き付くれば、あやしうこそ物狂ほしけれ。」の「主体」は誰でしょうか。
http://t.co/trJPinNY
>中所 宜夫:現代日本語は論理の衣を纏う事で、掛詞や縁詞などの豊かな修辞法を失ってしまいました。言語のパラダイムを変換させることで、もう一度あのの豊穣を取り戻し事は可能でしょうか。
それに挑戦したいです。
> 私が知るのは大学受験の古文までですが、古文に主語が少ないのは分りますし、主語が明白であれば特に書かない、主語+述語が必ずセットである必要はないと思います。そういえば、自分で本日のブログに主語がないと散々書いておりました。→
主語が明白であれば特に書かないのではなく、「主語」という概念がない。
>「主語という概念が無くても安心して自我が成立していられる」と打とうとすると手ががくがく震える。。。
自我が成立しているか、していないかは、問題にならない。
ましてや主語の有無など、問題にならない。
問題になるのは、私という場が作動しているかどうか。
> すみません、「私という場」の意味がわかりません。
「つれづれなるまゝに、日ぐらし硯に向かひて、心にうつりゆくよしなしごとをそこはかとなく書き付くれば、あやしうこそ物狂ほしけれ。」というような感じです。
私という場によしなしごとがうつりゆき、徒然草が書かれてゆき、その作動のなかで、私は物狂ほしくなってゆく。
よしなしごと、が心に勝手にうつりゆくので、徒然草を書いてしまうと、その場である私は、物狂ほしくなってゆく、という感覚がすばらしいです。
私もそういう感じで、本を書きます。
http://t.co/JlSbGh7d
世界の森羅万象が、私という場に繋がって流れこみ、流れ出ていくような感覚が、「あやしうこそ物狂ほしけれ」と言わざるをえないです。
徒然草・序「物思いにふけるままに、終日、硯にむかい、心にわけもなく続々と現れる考えを、際限もなく書き連ねていくという行為は、妖しく、物狂おしいものだ。」う?ん。
そういう意味だったのかと、モノを書く人間になった今になってわかる。
まさに書くというのは、そういう危険な行為だ。
「私が食べる」と「私は食べる」とは根本的に別物。「象は鼻が長い」という有名な例文で明らか。

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