私はあっしらさんの言う事に納得しつつも、心の中で少しひっかかるものを感じていました。
それは、これまで全ての宗教は、資産のない隙間なく働かないと生きていけない階級の不満を資産階級が「心の問題」として柔らげるためのものだと思っていたからです。
つまり、宗教自体がどのような教義であれ、本質的に反動なのだと。
だから、あっしらさんの言う事は正しいように思う反面、心のどこかで「彼らは宗教紛争を起こすための国際金融資本のエージェントではないのか?」と思ってました。
イスラム聖職者ですら、私は本質は単なる地主と長い間考えていました。
そして、農地改革をするのが嫌なので、地主・ブルジョアといった地元のボスがイスラム原理主義を支援している。その背後にいるのはアメリカとイギリス。そういう認識しかありませんでした。
何せイスラム原理主義の国と言ったらよりにもよって、湾岸諸国もパキスタンもインドネシアもチェチェンもスーダンもまあいや石油メジャーや米軍・CIAと深い関係のある国ばかりですから。
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あっしらさん、イスラムが本当の反米があると思ったのは最近のことです投稿者 スパルタコス 日時 2004 年 4 月 06 日
アフガン・ムジャヒディン=反共目的でCIAに育成された反共反ソゲリラ。基本的にイスラム原理主義のイメージはそうでしたし、エジプトやアルジェリアでテロで労組委員長のような人が襲撃されれば、ウォール街の手先に殺されたとしか思えませんでした。
どれほど反米を掲げても、実は彼らは石油メジャーや米軍・CIA・MI6・モサドとつながっているのじゃないかと。
しかし、アメリカ・イスラエルの蛮行に必死になって抵抗しているイスラム主義者が反動なのか、やはりイスラム主義者の中にも本物の反米主義者がいると感じてきたのです。
それは、イラク・パレスチナの抵抗が激しくなるにつれて。決して、マルクス主義の理論とかではなく、米・イスラエル軍の横暴に抵抗する怒りに満ちた人々の抵抗を見て、それは私が批判した所感主義かも知れない。
しかし、無差別テロには共感できず、むしろ謀略性を感じても、米軍を相手に戦う人々。自分がイラク人だったら、なって当然であろうと思うのです。もはや改良主義では間に合わない。武器を手に取って戦うしかない人々。
バシルやスハルトはエージェントでしかなくとも、軍需産業や国軍・諜報機関の意を受けて宗教紛争を起こす者がいたとしても、決してイスラム原理主義者全体が米帝の手先なのではないと最近感じています。
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イスラム支配層やアルカイダ的組織を信じているわけでも期待しているわけでもありません。投稿者 あっしら 日時 2004 年 4 月 07 日
思念的に体系化された宗教が支配層の道具であることに異論はありません。
そのような宗教状況を打破しようとしたイスラムも、支配を確立するとともに同じ轍を踏むことになったと思っています。(創始者ムハンマドもそれをお見通しだったようです)
支配を通じていい思いができることを実感すれば、支配の在り方が宗教(価値観体系)によって差はあるとしても、その地位を維持するという究極のところでは自己保身に動くと思っています。(それが、庶民のためでもあると考えることもできます)
現在のイスラム諸国の支配層は、イランを含め世界支配層の強い影響下(その承認がなければ地位を維持できない)にあると思っています。
イスラムがその名に値する復興を遂げるとしたら、宗教指導層でもなければ、アルカイダ的組織でもなく、地に生きている庶民によってだと思っています。
不謹慎な言い方になりますが、米英の「イスラム近代化」策動はその触媒になる可能性があると思っています。
もちろん、CIA・MI6・モサドがそのような庶民の動きのなかにもぐり込み謀略活動に精を出します。
それを乗り越えてイスラムを復興できるかどうかが、中東の将来を決する第一段階だと思っています。
それが達成できれば、世界の将来をも変える可能性があると思っています。
そして、世界の将来がそれで変われば、イスラムも変わることになると楽観?しています。
スパルタコスさんが重視している支配−被支配という関係構造の蓋然性と不要性などについては、折りを見て書き込みをしたいと思っています。
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レスありがとうございます投稿者 スパルタコス 日時 2004 年 4 月 07 日
オスマン帝国の時代の中期以後は、中央アジアからの民族移動が止まり、中東はかつてないような安定期に入り、イスラム教もかなり世俗的になっていった面があるのかなと思います。
しかし、米英シオニズムの侵略という危機が、皮肉にもイスラムへの回帰を強く求めるようになったといえると思うのです。
米英の「イスラム近代化(=私見ではイスラム国家の民営化・自由化)」がイスラムの何たるかを考察する機会になるとは本当に皮肉です。
あっしらさんに出会うまで、イスラム教というのは、仏教、キリスト教、ユダヤ教、ヒンズー教といった宗教の一つであり、イスラムすら冷戦の駒の一つでしかないと見ていたのですが、あっしらさんの深い論を見れば見るほど、イスラムというのは一つの文明の帰結であり、すごいんだなと思います。
全世界であれだけ沢山の人が信者になっている宗教を、冷戦対立の延長でしか見れない文明認識の狭さ、狭い階級対立史観を超えた巨大な文明史の中のイスラムの位置づけなど、阿修羅の中で始めて知ったといえるでしょう。
このあっしらさんの文明論に比べたら、いわゆる左翼反体制の世界は本当に狭くて小さい。
認識対象の基本が資本主義以後だから、視野が狭い訳ですね。
「宗教=反動の道具」という認識しかない左翼が本物の敬虔なイスラム教徒に出会って議論すると、あまりのスケールの大きさに、ひょっとしたらショックを受けてしまうかも知れません。
既存のイスラム国家の解体・民営化が行われる現在は、本物のイスラム教が出る過渡期といえるかもしれないのですね
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イスラムは商業的共同体の宗教であるがゆえに「近代」への直接的な“異論反論”投稿者 あっしら 日時 2004 年 4 月 07 日
いただいたレスのようにご理解いただき、非信仰・浅学の身でイスラムをあれこれ書いてきたかいがあったと喜んでおります。
イスラムをいわゆる宗教ではなく、共同体(国家社会)の統合理論や価値観として書いてきた私の姿勢はムスリムに冒涜行為と非難されても文句が言えないものです(笑)
イスラムを取り上げたのは、「反イスラム」が「反イスラム過激派=テロリスト」と微妙にずらした軸で世界を覆いそれが侵攻戦争に利用されていることもありますが、貨幣経済=商業の普遍化である「近代」に対する強烈な“異論反論”だと思っているからです。
以前にも書きましたが、現在の世界を覆っている対立を価値観的に捉え直せば、詰まるところ、セム系価値観の対立に他なりません。
日本や中国そしてロシアなどは、それぞれが独自の価値観を秘めているとは言え、目に見える政治経済活動はその選択が得という判断に基づき非イスラムのセム系価値観に寄り添っていると言えます。
非イスラムのセム系価値観とはユダヤ−カソリックを隠れ蓑や支配の道具として使ってきた国際商人金融家のそれであり、「近代」においては、かつての啓蒙主義から現在のグローバリズムそしてマルクス的共産主義をも含む近代の政治思想諸潮流だと思っています。
日本や中国が現実の利や得を捨てて「近代」に異論反論を唱えればいいのでしょうが、それを選択せず与えられた現実条件をうまく活用して利を得るという智恵=価値観を持っているため、現在のところはそのような動きにはなっていません。
(アジアの智恵とくに日本の智恵はそのように融通無碍です。「近代」の荒荒しい力に圧倒されてしまったという側面は否ませんが)
一方、イスラムは非イスラムのセム系価値観を乗り越えようとした商業的共同体の価値観ですから、あるところまでは非イスラムのセム系価値観と親和性がありながら、ある線を越えると非イスラムのセム系価値観と激突する性質を持っている価値観です。
(ムハンマドは1200年以上も前にそれを実践しました)
日本の仏教信仰者のように、イスラムが現在のムスリムにとっては世襲的宗教になっていることも指摘できますが、人はどうであらねばならないのか、家族はどういう絆なのか、共同体(国家社会)はどのようなものであるべきかについての価値観も継承されています。
“理念(べき論)”と“現実”が乖離することは常ですが、乖離を超えて異質のものになりかねない現実を目の当たりにすれば、人々は、いろいろと考えざるを得なくなり、何かをせざるを得なくなるものだと思っています。
それを通じて、親がそうだったから自分もムスリムになったという非選択の信仰から、自分自身が積極的に選び取った信仰に転化する人が増えるはずです。
それまでは宗教指導者の言葉で納得していたことが、自分自身の実感や行動となる別世界が生まれることになります。
前回のレスで書いた「それを乗り越えてイスラムを復興できるかどうかが、中東の将来を決する第一段階」というのは、それを通じてイスラム世界(諸国)が変わることです。
そして、「それが達成できれば、世界の将来をも変える可能性がある」というのは、イスラムが商業的共同体の価値観体系であることから、あらゆること(もの)が商業化(貨幣化)され否応なくその基礎である非イスラム価値観に寄り添っている日本を含む“先進国”の人々の現実の見え方を変えることになるはずだという思いです。
さらに、「世界の将来がそれで変われば、イスラムも変わることになる」というのは、非商業的共同体としての歴史継承性を基底に持つ日本の“伝統的価値観”が「近代」の諸条件を基礎にしながら現実化されることで、ムスリムの価値観や制度・様式にも影響を及ぼすことになるだろうという見方に基づくものです。
それは同時に、必ずや、非イスラム・セム系価値観の変容につながるはずです。

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