日銀の創設も陰謀では?
の続きです。
無から通貨が創造され、国民が利息を支払う
ここから転載します。以下転載。
◆無から通貨が創造され、国民が利息を支払う
アメリカ合衆国の金融政策である、金利・通貨の数量と価値、および債権の販売は、『ニューヨーク連邦準備銀行』が決定している。
この『NY連銀』は、ロンドンの「17のマーチャント・バンク人脈」が操る『ファースト・ナショナル・バンク』、『ナショナル・シティ・バンク』、『ナショナル・バンク・オブ・コマース』といったニューヨーク市の3大銀行が大半の株式を所有しており、残りのすべての株式も民間銀行の手にあって、政府など公的機関はひと株も所有していない。
1960年6月6日、下院銀行通貨委員会の公聴会で、ライト・パットマン委員長は、『シカゴ連銀』総裁、カール・E・アレンに対して質問を行った。
パットマンは後に『通貨入門』で、『連銀』へ行き、アメリカ国民が利息を支払っている債権を見せてもらった時のことについて書いている。
そこには、彼が債権を見せてもらったあと、現金を見せてほしいと頼んだが、彼ら(『連銀』)には何冊かの台帳と白紙の小切手しかなかったとある。
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また「お金の事実」(下院銀行通貨金融委員会、1964年)で同議員は次のように説明している。
「1ドルは連邦準備制度に対する1ドルの負債をあらわしている。連邦準備銀行は無から通貨を創造し、合衆国財務省から政府債権を購入する。利子の付いた流通資金を合衆国財務省に貸し出し、合衆国財務省に対する小切手貸付と帳簿に記帳するのである。
財務省は10億ドルの利付債の記帳を行う。連邦準備銀行は財務省に対して債権の代価の10億ドルの信用を与える。こうして10億ドルの債務を無から創造するのだが、それに対してアメリカ国民は利息を支払う義務を負うことになるのである」
こんな“おいしい錬金術”を、アメリカ人民を始めだれにも知られない深い闇の中で仕組くみ、今日の向かうところ敵のない「マネー経済」を支配しているのが『ロンドン・コネクション』という私的な国際的銀行家であった。
前号では、『ロンドン・コネクション』から与えられた「対中国アヘン貿易」の一定%から揚がった資金を背景とする“不動産王”アスター家の、その秘密代理人であるモーゼズ・テイラーが、『ナショナル・シティ・バンク』を誕生させ、南北戦争までの間にどう膨張してきたかを見た。
今号はその続編で、例によってユースタス・マリンズ著『THE SECRETS OF THE FEDERAL RESERVE』(「民間が所有する中央銀行」秀麗社刊)に沿って進める。
●南北戦争から『NY連銀』株買い取りまで
1861年8月、南北戦争の開始と同時に、モーゼス・テイラーは連邦政府(北軍)に資金を調達するための貸付委員会の委員長に指名された。
戦争の資金を調達するために、委員会は政府に500万ドルを12%の金利で提供するといって、リンカーンにショックを与えた。
リンカーンはそれを断り、合衆国財務省を通じて金に裏付けられた有名な「グリーンバック」(裏が緑の法定紙幣)を発行して戦費を調達したが、テイラーは戦争中に富を増やし続けた。
1882年、彼の死に際し、『NY・タイムズ』(5月24日付)は
「モーゼス・テイラーは、1861年にはニューヨーク市の連合銀行の貸付委員会の委員長であった。彼には2億ドル相当の有価証券が委託された。1861年に政府自身が戦争を遂行する手段を有していることを発見したのは、おそらく他のだれでもない彼のせいである」
と報じた。
テイラーの晩年、後に『ナショナル・シティ・バンク』を背負ってたつ若くて有能なジェームズ・スティルマンが彼の子分となっていた。
テイラーの死後、彼の義理の息子パーシー・パインが跡目を継いだが、その時『シティ・バンク』を『ナショナル・シティ・バンク』と社名変更した。
しかし、パインは身体障害者であったため、十分な役割を果たせず、銀行業務は沈滞した。
同行の株主に、「石油王」ジョン・D・ロックフェラーの兄弟ウィリアム・ロックフェラーがいた。
彼は1891年、ジェームズ・スティルマンに業務を任せるようパインを説得。直後にロックフェラーの膨大な石油収入が同行に預けられた。
ウィリアムの息子のウィリアム・Jは、スティルマンの娘エルシーと結婚し、ロックフェラーの別の息子のパーシーはスティルマンの別の娘イザベルと結婚した。
スティルマンもまた『ロンドン・コネクション』の一員であった。
彼の父ドン・カルロス・スティルマンは、南北戦争の時にイギリスの代理人および密航者としてテキサス州ブラウンズビルにやってきた。
●ベーカー一族とモルガン一族
1914年の『NY連銀』の2番目の大株主『ファースト・ナショナル・バンク』は、銀行の設立者ジョージ・F・ベーカー(ディーヴァーと“psy op”を指揮したジェームズ・ベーカーの祖父)と息子のG・F・ベーカーが、銀行全株式の25%を占めていたが、重役会のモルガン家の代表団ゆえに、一般には「モルガンの銀行」として知られた。
ジョージ・F・ベーカー・シニアの娘はロンドンのジョージ・F・セント・ジョージと結婚。
セント・ジョージは後に合衆国に移り住み、彼らの娘キャサリン・セント・ジョージは長年にわたって著名な女性議員となった。
『フランクリン・D・ローズベルトの奇妙な死』(E・M・ジョセフソン博士著)に、「『民主主義は失敗』というのが、フランクリン・D・ルーズベルトの実のいとこでニューディラーのセント・ジョージ夫人の言葉であったとある。
ジョージ・ベーカー・ジュニアの娘エディス・ブレヴォート・ベーカーは、ジェイコブ・シフの孫であるジョン・M・シフと1934年に結婚。
ジョン・M・シフは現在『リーマン・ブラザーズ―クーン・ローブ商会』の名誉会長である。
●完璧なロンドン・コネクション支配
1914年の『NY連銀』の3番目の大株主は、25万株を取得した『ナショナル・バンク・オブ・コマース』である。
J・P・モルガンは、同行の2万4700株を持つ『エクイタブル生命保険会社』と、1万7294株を持つ『ミューチュアル生命保険会社』の支配的株主になることによって『ナショナル・バンク・オブ・コマース』の1万株を所有した。
その内訳は、『JPモルガン商会』(7800株)、J・P・モルガン・ジュニア(1100株)およびモルガンのパートナー、H・P・デーヴィソン(1100株)であった。
『連邦準備制度理事会』議長、ポール・ウォーバーグもまた3000株を所有。
金融業者トーマス・フォーチュン・ライアンもまた5100株を所有。
息子のジョン・バリー・ライアンはオットー・カーンの娘と結婚。
カーンは『クーン・ローブ商会』では、ウォーバーグとシフのパートナー(共同経営者)であった。
ライアンの孫娘ヴァージニア・フォーチュン・ライアンはエアリー卿と結婚。
エアリー卿は、ロンドンとニューヨークの『ヘンリー・シュローダー銀行』の現在の頭取である。
3000株を有する、A・D・ジェラードは、『ジェラード商会』の会長で、ニューヨーク生命保険会社』と『ギャランティ・トラスト』の評議員であった。
これら3社はJ・P・モルガンの完全な支配下にあった。
さらにジェラードは『ノース・ブリティッシュ&マーカンタイル保険会社』の重役で、『ケミカル・バンク』の重役でもあった。
M・ジョセフソンの『泥棒貴族』には、「この秘密同盟作戦で、彼(モルガン)はナショナル・バンク・オブ・コマースの直接の支配権を獲得した。
それは、ファースト・ナショナル・バンクの頭取で、非常に強力かつ保守的な金融業者のジョージ・F・ベーカーと同盟しながら獲得した部分的な所有権であり、こうした株式の所有権と兼任重役会という手段で、第一級の主要なその他の銀行、すなわちハノーヴァー、リバティ、チェースといった名門銀行と同盟関係を結んだ」とある。
E・H・ハリマンの未亡人メアリー・ハリマンもまた、5000株を所有。
ハリマンの鉄道帝国の資金は、『クーン・ローブ商会』のジェイコブ・シフによって全額融資された。
レヴィ・P・モートンも1500株を所有。彼は合衆国第22代副大統領(1889〜93)と駐フランス公使(1881〜85)の経験もあり、ニューヨークの『L・P・モートン商会』およびロンドンの『モートン―ローズ商会』、『モートン・チャップリン商会』の会長であった。
彼はまた、『エクイタブル』、『ホーム』、『ギャランティ・トラスト』、『ニューポート・トラスト』の重役でもあった。
これら、世界の「一流」あるいは「名門」といわれる閨閥が各国政府を裏で操り、世界中の人々の生き血をすすって未曾有の繁栄を誇っている。
7/6/19

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