「さようなら」
あした、家の葬式がある。早い話が、親戚が家を引き払って田舎に引っ込むらしい。誰か死んだわけじゃない。子供の頃の思い出が一杯詰まったあの家が無くなる。人によっては何回も引っ越すから、子供の頃過ごした家が大人になるまで存在しているほうが珍しいかもしれない。
その親戚は祖父、叔父、叔母が住んでいた。子供がいない家だったので、自分が歓迎されていることを肌で感じた。家が近かったので、子供の頃は入り浸っていた。幼稚園の途中から、(4歳くらいか)今の家に引っ越した。
親戚のその家に近いことは変わらなかったが、幼稚園は通いつづけるのが困難になり、辞めた。引越しのドサクサで、母が別な幼稚園に私を編入させるのをすっかり忘れていて、小学校にあがるまでの二年間、フリーター生活?を余儀なくされた。その間、ほとんどこの親戚の家に通った。幼心にどこかに通いたかったんだと思う。
私の部屋があった。私の三輪車や、沢山の絵本、何より親戚の家なのにわたし用のベッドがあった。私の乳母車まで、玄関にあったままだった。あの家を見ると、ママと二人で朗読した絵本の文句がこだましてきそうだった。
「せんとばーなーどはかしこいいぬ。くびにぶらさげたぶらんでーでゆきやまのひとをすくいます。」
中三で祖父が死んでからは余りそこに行かなくなった。
祖父は82歳で死んだけれど、その日を境にその家が急に深閑となったのを覚えている。祖父は特に口数が多い訳ではなかったが、叔父叔母がいてもいつも主が留守中のような。家がしゅんと冷めたような寂しさがあった。死んで初めて祖父が明るい性格だったんだなぁと思った。
叔父が変な人で、面白かったのでそれ目当てで遊びに通っていたような感じがあった。
いざ祖父が死ぬとそこに全く行かなくなっている自分に気づく。
あの家があした無くなる。
叔母ががポプリとか籐を編むのに凝って、いつも懐かしい優しい匂いがした。子供のいない叔父にせがんで車で吉祥寺の善福寺公園とか動物園とか行って。
あのころは敗北感も屈折もなにも知らずに楽しく過ごした。
親戚みんなの前で化粧してシナを作ってみたりした。
風通しのいい家で、あの家で初夏を迎えるのが好きだった。
あの日叔父叔母はいなくて、日の光が縁側からさんさんと入ってきて、芝生の香りが鼻につんとくるともう三時くらいか、70代の祖父に「おじいちゃんクレープ作ってよーん」と暴言を吐き、作ってもらった得体の知れない物体にはちみつをかけて食べた。
いとこも来た。兄貴も来た。近所の子も集まってみんなで探検しに行った。呼び鈴が鳴って開けるとみんなが遊びにいこうよでへへと笑っている。ベルにあんなにときめいたのは子供の頃だけだった。
そして叔父と叔母も明日から離れ離れに暮らすのだそうだ。
思い出のつぶては遠い昔のあの初夏の昼下がりに消えたっす。
あした顔出そうかなぁ。
絵本とかはきっと捨てられただろう。またがって乗れるブーブーも。
でもひとつ悲しいことが起こると言うのは良い。かつて出会ったつらいできごとを今回の悲しみでひとつ忘れられるんじゃないかといつも期待してしまう。
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実はこの文章、↑2000年3月18日に書いたものです。
あえて直したりせず、そのまんま出しました。
2010年のかいせつ
いやー。読みにくい。
文章ヘタクソやな。(今もかもだが)
最後の二行、Iさんという男性をまだ忘れてない私の心がでてます。
いまとなってはどーでもいいのに
あのころはほんとうにつらかった。
どーでもいいというのは失礼だな
でもほんとうにどうでもいい
あの人がどーでもよくなる
そんな日がくればいいのにと 死ぬほど待ちわびてたわたし

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