「功名が辻第十四回「一番出世」の話題とおまけ付き(1)」
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互いの出世競争は厳しいようですが・・・・・・。
しかし、戦ばかりが仕事ではないようです。
おい、
ロンブー淳!一氏!一豊が400石だからって、
竹中大臣じゃなかった竹中半兵衛の前でひがむな!(一豊)
一豊!一氏にあんなことを言われて落ち込むな!(視聴者ぉ)
しかし、秀吉の母役の菅井きん、板についてますね。
ねねが「側室」のことで気にかけているときに、秀吉とねねの前でがつん・・・ですか。
でも最後の千代が堀尾一家に湯殿(風呂場)に貸すって・・・・・・。まいいか。
公式ホームペ-ジのあらすじも載せます。
第14回「一番出世」 4月9日放送
北近江を得た秀吉(柄本明)は今浜を長浜と改め、新城の築造を始める。一豊(上川隆也)の知行は四百石。堀尾(生瀬勝久)と中村(田村淳)は百五十石。この差が一豊には悩みの種だ。出会えば会釈する二人に言いようのない距離と寂しさを感じるのだ。千代(仲間由紀恵)は、寧々(浅野ゆう子)から城に呼ばれ、秀吉の度を過ぎた女好きに対する痛罵を聞かされる。
ある日、千代は城で畑仕事をする老婆と知り合う。正体は秀吉の実母・なか(菅井きん)。千代は寧々の苦悩を告げる。秀吉が実母に叱られるところを見れば、寧々の気鬱も散じるだろうと思ったのだ。この頃秀吉は家中を固めるため身内を近くに置きたいと思っていたが、妹の旭(松本明子)と夫の源助(小林正寛)が聞き入れない。説得を命じられ千代と一豊は旭たちの住む小屋を訪れ、説得を試みるが、旭は城に行くのはいやだと頑固一点張り。
しかし当の源助が、刀は持てんが建物の作事なら得意、自分に合った仕事でお役にたてればと言い出す。行きたくないと泣きじゃくる旭に一豊は、戦場には出ずにすむよう殿にお聞き届けいただく、と約束をする。数日後、山内家には千代が機転をきかせて湯浴みに呼んだ堀尾と妻・いと(三原じゅん子)の姿があった。
http://www3.nhk.or.jp/taiga/story/story14.html
で、浅井攻略後,今浜に移った秀吉は、この町を長浜と改名を行ったんですよね。
女狂いや秀長に関しては、
「感動創造カンパニー」さんの
こちらのページで述べていますので省略しますので、他の話へ(ぉ。
堀尾吉晴,中村一氏の流れを一応掲載・・・・・・。
堀尾吉晴(Wikipedia)
中村一氏(Wikipedia)
堀尾は山内一豊と同様、岩倉尾張守護代家の家臣で、農家をしながら使えていた土豪でしたが,こちらは一豊より先に秀吉に使えたようで,小牧長久手以降、秀次与力の宿老として佐和山に4万石(一豊は長浜2万石で、秀吉の城を・・・・・・)、さらに、関東征伐後は、
織田信雄の
転封不服に対して秀吉が激怒し、そのための改易もあって、堀尾吉晴に浜松12万石を、中村一氏に駿府15万石を、なぜか一豊は掛川5万石でしたが、拝領しました。
ちなみにそのときに、
田中吉政が岡崎を、池田輝政が岐阜から吉田(今の豊橋)を与えられるのですが,おおよそ10万石強(田中は当初は7万石、秀次事件後は10万石ほど)。それぞれ東海道筋を押さえていったわけであります。
ちなみに、田中吉政はかつて近江宮部家(
宮部継潤)に使えていた者で,その後秀吉に抜擢し、使えることになったわけであります。関ヶ原の際にはかつての主君だった宮部家と敵味方に分かれ、宮部家(
宮部長房)は西軍につき、鳥取5万石(一説には20万石?秀吉蔵入地も管理?)を召し上げられ,その一部を一氏の子に渡すわけになるわけでありますが・・・・・・。
関ヶ原の戦い前に吉晴は隠居し、
忠氏に家督を譲りますが、関ヶ原の戦い後に松江24万石(吉晴自身は隠居料5万石を家康から拝領)を与えられることになるわけですが・・・・・。
ちなみに話を脱線しまして(ぉ、松江城と堀尾家の話ですが、堀尾家は忠氏亡き後その嫡子(吉晴の孫)
忠晴が継ぐわけですが,その忠晴も吉晴死後、早世し、御家断絶になってしまうのであります。その次の松江城主が関ヶ原の戦いのときに近江大津城主であり,
西軍の攻撃を凌いだ(妻が
浅井長政の娘ということもあり,開城降伏後も助命されたが)
京極高次の子、
京極忠高が入封になるわけですが・・・・・・。かつて,
京極家は
隠岐や出雲、若狭の守護を室町幕府時代に受けたことがあります。ところが、応仁の乱後,守護代の
尼子経久に追い出されて一族は一時期没落したわけでありますが、変遷を経て、やっと「元さや(ぉ」に戻ったわけでありますが、忠高の死後、すべてがおじゃんになり(ぉ、その後松平家が入封し、明治に至るわけであります。
忘れておりました(ぉ。中村一氏は、近江の出ですが、どういう経緯か不明ですが,秀吉に使え、その後功名を挙げたわけですが,関ヶ原直前に亡くなり,子の中村一忠が一豊らとともに参戦したわけであります(しかし、中村家は関ヶ原後わずか9年無嗣断絶・・・・・・)。
山内家も下手をすると無嗣断絶という危機をはらみながらも,幕末の
龍馬の時代まで生き延びましたから,ある意味すごいです。
続きはまた後日(来週の放送までに)・・・・・・。
追伸
しょぼい(ぉ)湯殿で愚痴を言っていた一氏の前で「もう一豊の家には参りません」と言ったとし役は・・・・・・。あのときは「乙葉」には見えませんでした(ぉ。

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