一日に振幅の大きさについて思いをはせてみたり。
午前中に閉鎖病棟のグループセラピーに参加する。グループとは集団の中に自らを投射する作業であり、集団によって形成された場に、より大きな自我が宿ると想定し、その自我を扱ってゆく技法といえる。円形に集ったサークルの中に生まれる自我とは、個を超えた自我の到来を予感している段階で、既にそれは超越的なものへの憧れと同義なのかもしれない。
例えばグループセラピーの最も成功した姿の一つである,Alchoholics Anonymusなどは、書の誓いの中に宗教を超えた超越的な力を信じる、という文言があったりする。今何となく書き連ねていると、いよいよグループセラピーの中に隠されている魔術的な要素に気付きつつあるのに驚いているが、それは本来俺自身に文才があれば文末の絞めあたりで本来語られることなのであろうが断念する。
とはいえ、匿名性と抽象性、中立性というベールの中で、グループセラピーは無害化されているし、そのことに依ってダイレクトに集団が個に作用し、強制的に客観性を作用させることによって、個人精神療法の個対個の自己愛的な世界に依る治療の限界を超えようとしたものである。グループ中で治療者はグループの利用者(クライエント)と同時にメンバーとして場を共有しつつ、平等に注意を漂わせることに腐心しながら、クライエント達が自ら発言し、自己開示し洞察を深めること、言語的、非言語的に促してゆく。しかしそれは決して操作できるものではなく、天気のように移り変わり、流れに身を委ねるものであるのだ。
そして夜になり神秘学の本などを読んでいると、ここには個人の自己愛的世界の究極の姿が展開しているのを感じる。外的なリアリティーとの軋轢を、個のリアリティーを極限まで高めることで超克しようとする姿とでもいおうか。宇宙自身がそのもの自身から始まったとするならば、それはそもそもが閉鎖系であり、個として閉じられていた世界ということではないか。外部に向かって広がっていると感じられる世界も、個のバリエーションの多様な形態のでしかないことになりはしないか。それは究極の退行的世界の話であり、死とはすなわち子宮内の自我の未分化であった状態への回帰であって、ここに始まりと終わりの円還が閉じられるということになる。その先にキアに回収されたり、輪廻を遂げたり、ライフフォースに合一したり三途の川を渡ったり、霊界に行って驚いたりするかもしれないのだが。
魂の永遠を信じるか、虚無へのエントロピーを失って終わるかの疑問はさておいて、何がいいたいかというと、一日の中で集団と個の対極の中で自分自身がバランスをとっていることに大きな意味があるということなのだ。
偉大な仕事をしようと志すとき、目の前の花の美しさを忘れ、毎日の生活に追われるとき、生を受けた目的を忘れているものだ。


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