3.11の東日本大震災とその直後から発生した原発事故。このショックに打ちのめされことばを失ってからまだ何もかけないでいる自分がいる。
しかし多くの日本人が気づきつつあるように、この日から日本は何かが確実に変わった。それは危機的な映像からの一瞬の直感、一撃から発せられたものではあるが、日一日と確実なものとなりつつあるように見える。
我々の安寧な日常は終りを告げた。終わりなき日常が遂に終わりを迎えたのだ。我々が虚無感とともに需要、適応を余儀なくされていたあの憎き終わりなき日常ののものが、戦後の安全保障の傘のもとで享受できていた安全神話の賜であり、親に庇護され未来への不安なく笑っていられる子供たちの感じる安全という幻想そのものであったことに気づかざるを得なくなったのだ。
有り体に言えば我々は遂に目覚める時を迎えたのであり、それは安全、そして自らの決定を自分の責任において果たさなくてはならない時代を遂に迎えたということだ。
原発の事故、これが如実にこの事実を指し示してくれている。原子力は我々の手に余るということ。安全神話は完全に崩れ去り、今なお多くの死の灰が東北一圓、して東京、今日はまたここ岡山、九州、沖縄までふり注ぎ続けているということ。決して起こりえないということが実際に起きている。
我々は原発の本当の危険性について認識をしていながら、自らの怠惰さ故に行政や電力会社の安全だという主張に思考を停止させ、その問題から目を背け続けてきた。我々自身もその責任の一端を担わなくてはならないだろう。その上で本当に必要なものを自分の責任において選びとってゆかなくてはならない時代がやってくる。
アセンションを待ち望んでいたニューエイジャー、終末論者たちよ、歓喜せよ。今こそがその時だ。まさに今、訪れていることがアセンションの正体だ。その時君たちそして我々が何をなすのか、その内実が問われている。アセンションはその瞬間から始まるだろう。
突然生じた震災の災害は、人が死と分かちがたく存在することを完膚なきまでに知らしめてくれる。その無力感の前で呆然とするしかないが、その呆然とした先から自分の足で歩まざるを得ない。その無力感と寄る辺なさこそが生の孤独の本質だ。そして原発の真の問題は、そのシステムが中央集権的な官僚的システムの中で運営されているということであり、その責任、決定に我々が全く関与できないことにある。そしてシステムを運営する張本人たちにとっては、我々の生命、安全への責任は全く人事であったということだ。
今後我々はその責任を自分たちの手に取り戻さなくてはならない。その中に我々一人一人の目覚めは起こってくるだろう。自分たちが果たさなければならないことをひとつひとつ果たして行くこと。そういった自立した個人が互いに結びつくことでネットワークを作ってゆく。そんな新しい時代の出現を今目の当たりにしているのではないか。そしてその時をもって我々の戦後は終了し、日本と言う国は自立をしてゆくのではないか。
すでに多くの仲間が震災直後から、驚くべきスピードで移動を始め、出会う人々と互いの想いをぶつけ合い、対話をはじめている。東京から疎開し地方に居を移す仲間もいる。見たこと、感じたことを信じ自分の本能、直感が是とする方向に進め。そうした自立した個人が連帯し新しいコミュニティが生まれる。その連なりから新しい社会が立ち現れる予感を感じている。
未だ被災地では混沌とした状態が続いているようだ。物資は届くが、郊外では小規模な略奪や治安の悪化もあり、行政の治安維持は未だ確保されていない無政府状態の地域も存在するという。しかし各避難所が中心になって人々がモラルを維持し、ある種の自然発生的なコミュニティを形成している。死の灰が降りしきる中を瓦礫の地平線と無数の星々を目にしながら。

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