〜初 段〜
駅ベルが鳴り終えると、列車はあわただしく動き始めた。すると人々の流れは一転して改札の方向へ向かう。良博はその改札の手前にぼんやりと立っていた。先週までの習慣なのか目は自然に開いた。行くあてもなく、ただ駅に来るのが虚しかった。そのせいか良博は枯れ果てたような顔色になっていた。
意地だった。以前の会社を上司との喧嘩で辞めたものの、親掛になるのはどうしても考えられなかった。失業保険と多少のたくわえをあてにしてはいるものの、もうすぐ三十になろうとする良博に、そう簡単に次の仕事はなかった。歩くたびに力が抜けていく感じがして、良博は人の流れを避けて、柱の陰に立っていた。こうして一時間あまりをここで過ごすのが、だんだんと習慣になりつつあった。
改札を抜けたサラリーマンや高校生の群れが良博の横を、あわただしく通り過ぎていった。どちらかといえば新興の住宅街になるこの街には、公立高校が一つと私立高校が二校ある。そのため、朝は足音のほかに嬌声が響き渡ることになる。大きなスポーツバッグを担いだ一団が、通り過ぎると、良博もその流れに従って駅の階段を下り始めた。すると、その良博を追い抜いて、日に焼けた坊主頭の数名が駆けていった。
「そうだ、スポーツ新聞を買うのを忘れた」
良博はそうつぶやいて、人の流れに押されぬように、体を返した。すると長い髪をまっすぐに垂らしたやや背の高い少女とぶつかりそうになった。良博はよろよろとその少女を避けたのだが、そのときその少女のみずみずしく張り詰めた、チェックのスカートからのぞく太腿と脹脛が目に付いた。少女というには豊満な成熟を感じさせるその部分は良博の目に焼きついた。サラサラとした美しい髪に彩られた後姿が良博の視野から消えると、良博の目には少女の面立ちの幼さの残る美しさが蘇っていた。
ドキドキとした。良博は自身の拍動がこの街全体の拍動に思えた。この感覚はもうすでに何年も感じたことのないものであって、恋慕であると良博が自覚するには、スポーツ新聞を買い終えて、家に着くまでの時間がかかった。すでにもう良博はスポーツ新聞すら読めずにいた。
春日野の若紫のすりごろもしのぶの乱れかぎり知られず