〜第4段〜
遥香と連絡が取れなくなってもう一月になる。良博は新しい住所を告げられないまま過ごしていた。遥香との思い出はいくつかの写真となって残っていた。遥香の撮った写真だった。
遥香は写真を学んでいた。ただし人を撮ることのできない遥香は、風景や花や建物ばかりを写していた。
写真のどこにも、自分も遥香もいないことに良博は戸惑った。その戸惑いは、遥香への思慕というよりも、その風景写真がいつか見た景色そのものであって、思い出の風景としてその中に入り込むことを写真と遥香が拒んでいるように感じられたからだ。
遥香は古いテナントビルの二階に住んでいた。もともとはこじんまりした事務所のようなものを改装したらしく、窓ばかりが多いその部屋に、写真に囲まれて遥香は暮らしていた。
それらの写真を仕舞い込んで、良博はデニム地のオーバーシャツを慌てて羽織った。遥香の住む町は決して遠くないが、電車を乗り継いでいくために一時間は優にかかった。
それは思いつき以外の何ものでもなかった。だが、良博はそそくさと自転車にまたがり駅に向かった。
階段を上り改札を通ると、電車はちょうど出てしまったばかりのようで、次発は十五分後になるようだった。平日の夕方前という時間帯は、随分と余裕のあるダイヤであるらしかった。良博はベンチに座り、目の前の広告を眺めて座っていた。
やがて来た電車に良博は乗ったが、そのがらがらの車両の中で、良博一人だけが立ち尽くしていた。
遥香の家のある駅に着いて道を急いだ。駅前の小さな商店街の肉屋と食堂の前を通り、小さな郵便局のところを右に曲がった。そこからは古い住宅街になっていていた。その先の、道をはさんで町並みが新しくなる境目に、八百屋やレンタルビデオ店のある古いテナントビルがある。この二階が遥香の部屋だ。良博は外付けの鉄製の急な階段を駆け上がった。少し暗くなりかけた空気に良博の足音だけが響いた。
良博は遥香の部屋のノブに手をかけた。でも、ノブが回ることはなかった。ドアにはしっかりと鍵がかけられていた。合鍵を取り出そうとして、ジーンズのポケットに手を差し込んだそのとき、少し前かがみになった良博の目に、そのノブにぶら下がったビニールの封筒が目に付いた。
手にとって見ると、それは電気料の払い込みに関する書類であることがわかった。良博はドアと少し距離をとって、そこから見える窓に目をやった。
何もなかった。いつもそこにあった水色のカーテンもお気に入りの写真をぶら下げたままにしていた洗濯ロープも、彼女の痕跡の何一つもがなくなっていた。まるで遥香という女がいたことすらも幻であったかのようだった。
良博は立ち尽くした。鉄の階段から早春の寒気が良博の足に登ってきた。そのまま、何もせずに、自分の顔が玄関のドアのガラスに映らなくなるまで立ち尽くしていた。
空には掻き傷のような三日月があった。街の明かりに抗して微かな光を放って、明日には消え入りそうな姿であった。良博はようやく階段から降りると、来た道をゆっくりと歩いた。しばらく行くともう苔生したブロック塀の向こうに爛熟した辛夷の花が咲き乱れているのに気がついた。来るときはまったく気がつかなかったその花は、真っ白く垂れ下がって咲いていた。おそらくもう数日で崩れてしまうだろう花影は、月の光よりも白く辺りを照らしていた。
月やあらぬ春や昔の春ならぬわが身一つはもとの身にして
良博はすでになくなっている自分の影を探すように、その花明かりの下をうろうろと歩いた。