冥王星はすでに惑星ではないらしい。マシューズの「冥王星」を聞きながら、なんとなくのお別れをした夜だった。
昨今では星は作られるものらしい。
ちょっと前に書いたボクシングの亀田選手の場合なんかが典型的だ。子どもの頃からこうなるべくして計画立てられている。なので予定外の試合展開になると、昨今の話題のようになる。もし彼が、チャンピオンになって人気が出たのであれば、彼はこんな思いをしなくてもいいのにとも思うが、お膳立てがあった分だけ不幸な結果だったと言うよりほかはない。
やや前から勝ち組・負け組といった話がよく聞かれる。バブル経済のころのマル金マルびみたいなものだろうか。ただ違うのは当時は勝っても戯画化され、負けてもそれを笑える構造的な余裕があったが、長い不況のトンネルのさまざまな影響で、私たちは今、勝ち負けを笑えずにいるという点だろう。学歴や収入による階層化はなんだか明確になっていくばかりだ。負け組に余力がないから今度は笑うことも出来ない。
私がここのところ感じているのは、この二極化のほかに、消費される者と消費される者の区分も出来上がりつつある。この場合強者はいつの世も消費する側である。たとえばホリエモン。彼は勝ち組の中の消費される者だったわけだ。亀田選手は勝ち組になろうとしたところで激しく消費されている。
最近何かと話題の早稲田実業の斎藤佑樹投手も今マスコミなどが消費しようと必死である。彼は別に戦略があって売り出されているのではないので、マスコミなどが売り込みの路線引きに躍起になっているが、私とすれば、高校野球ということを前提にしてだが、あの決勝および再試合の力投を見せたことで十分だろうと思う。高校生にしてプロの卓球選手である福原愛さんのようにCMにも出る必要もないし、これ以上の消費方法などは彼の進路が確定してからでも十分だが、美味しいうちにというさもしさが報道には現れている。斎藤佑樹投手がプロになることを決意して、高校を卒業してからで十分だと思う。
それにしても斎藤投手が語られるときは、太田幸司さんや坂本圭一さんと比較されている点が面白い。西武の松坂投手や、かつての怪物江川卓さんといった並びではなく、また先輩でもある荒木大輔現西武コーチともちょっと別に、失礼な言い方かもしれないが、プロとして大活躍した方ではない方が引き合いに出る。マスコミとしてもそうそう長くはこの話題が消費できないと踏んだのかどうかは判らないが、であればこそ大学へ進学してじっくり野球に取り組むのもひとつの手だろうなあとも思う。インタビューや表情からは聡明さがわかる。学業成績まではわからないが、じっくり考えて、よい進路を得てほしいと思うし、彼の周囲の人もよいアドバイスをしてあげてほしい。
ここまで、マスコミの消費ばかりを書いたが、当然そうではなく、結果的に搾取される側になるということは消費されるということだ。社会的な話題となって「私」の部分を消費される人と、金銭的に、また労働力として消費される人の2系統に消費される人は別れる。私たちは後者である。ではどこからが消費かといえば、本人が消費されていると思った時点が後者の消費の開始になると思う。多くの人は消費され、一部の人がその栄養を集積する。小泉政権下のサラリーマンへの負担が増した痛みを伴う改革は痛み以外の明確な恩恵を広くは与えていない。雇用形態もパート・フリーター・契約社員といった形態が増加しているそうだ。
これは私たちが「きれいな言葉」、たとえば「官から民へ」「改革断行」といった内容の不明確な話に踊ったことの結果なので、なんともいえない点があるが、あまりに議論不在の時勢は改善されてほしいものだ。
そう考えても、すでに「消費されるべく」「議論なく」して用意された存在ではない、自然発生的な斎藤投手は確かに清涼剤ではある。
星も作られる。でも現象は区分や評論とは別次元に存在する。今夜だって空の上には冥王星もあるのだ。私たちが考えるべきなのは、評論の方法や議論回避の手立てではなく、どういう社会的な現象を起こしていくか、または現象を現象として精査する力だろうと思う。
いい音楽はいい。このいい音楽という現象をはっきりと見ることが大切だろうと思う。