なんと久しぶりのエントリーだろうか。自分でもあきれてしまう。
さて、先の参院選が終わって、さまざまな言説が出回っている。そんな中で自分が何で最近、文章を書く気がしなかったのか薄々わからせてくれる。論説に出会った。
でもって自覚した。どうも安倍政権になってから、自分の文章では言い切れない不快感があって、それを表現できない苛立ちというか、表現してしまえば簡単なことなのだが、それでは言い尽くせない何かがあるために、おそらく何書いても面白くなかったのだろう。
加えて、仕事面でのプチうつ状況もあったので、何をしても愉快ではない状況にあったように思う。
こんな私の状況を明確に自覚させてくれたのが、本日付の産経新聞であった。我が愛読紙ながら面白い文章を掲載してくれた。
岡崎久彦氏の「正論」の文章である。
正直言ってあきれてものが言えないとはこのことだ。
同じ安倍政権擁護であっても前日の
屋山太郎氏のものと比較してまずはお読みいただきたい。何か変だとお気づきになる方も多いだろう。
まず最初の≪自ら判断してブレない≫を読んでいただきたい。岡崎氏の褒めていることは、安倍首相が識者の意見を頼らず、自分で判断していて、その判断を変更しないということだ。
首相が政治のプロであるならば、中学生でも知っている、政治とは利害の対立の調整であるということはご存知のはずで、つまり政治家とはさまざまな立場を勘案した上で判断すべきものということだ。その上でぶれないのならともかく、岡崎氏の褒めていることは、勉強や知識の有無ではなく「ブレない」の一点なのだから、まずはこの論説は嫌味なのかしらんと考えてしまう。
また、この第1段落で、岡崎氏は日本の選挙はムードであると、論じているのだが、ムードが一切影響を持たない選挙なんてあるのだろうか。アメリカの大統領選での派手なTVパフォーマンスや政権広告はムードではないのか。ただ、そのムードを牽引する部分に理性的な判断がなされる余地があるかどうかなのだ。
小泉刺客選挙を氏も「ムードによる勝利」としているが、あの場合の郵政民営化のムード作りはひどいもので、過去のエントリーでも書いたが、あの説明不足、「正しいといったら正しいんだ」の姿勢は今後に禍根を残すだろうと私は今も思っているが、確か岡崎氏は郵政民営化賛成論者じゃなかったのだろうか。いとも簡単に自らの言説をこんなに簡単に覆すこと、つまりは「ブレること」が言論を生業の一部としている人間にとって致命的なのは言うまでもあるまい。
また、安倍首相の人権発言もよいしょの対象にしているが、どこが琴線に触れるのか私にはよくわからない。そもそも19世紀には人権などはなかったのだから。人権がアプリオリなものではないなんてことは十分にご承知のはずで、その上でこんなことまでもおっしゃる。言いたいことは、「先の戦争は日本の失敗で始まり、日本の敗北で終わった。その後アメリカの協力と教育のおかげで人権思想が日本にも根付いてよかった」ということにほかならないだろうけれど、あまりに遠まわしで判りづらい。
次の≪古い自民党的体質の人々≫において、岡崎氏は安倍内閣の外交を褒めちぎるのだが、
今日の産経抄をぜひお読みいただきたい。日本の外交的な立場は決して有利なものではないだろう。むしろ駆け引きに負け続けている感は否めない。勇気のある言論人が第2の「NOと言える日本」でも出しそうな世の中と熟知してのよいしょである。何だかここまで具体性がないと、読んでいて気味が悪い。
また岡崎氏は「防衛庁の省昇格」「教育基本法改正」「国民投票法」などをについて「解決」という語を用いているが、これらの法案はどこで検討され、誰が作ったものなのだろうか。新聞に掲載され私たちが読み終える頃には強行採決されていた法案をして「解決」とは噴飯ものである。
少なくとも日本は議会制民主主義なのだから、説明と議論は必要なことなのだ。その国民主権のもっとも重要なプロセスを省いている行為を褒めるということは、議会制民主主義の否定にほかならない。併せて積年の議論をスポイルする行為を賞賛していることにほかならない。
なぜ防衛省が必要かといえば日米軍事協力のためだろうし、そのためには憲法改正が必要で、国民投票法がなければならず、愛国心を教育しないものはパージする法律で、親米的見識の刷り込みをさせようという氏の意図が見え見えで、つまらない。何で遠まわしに、ある意味、極めて日本的に表現されるのだろう。「親米のほうがむしろよく、できればアメリカの一部になれるのが望ましいと考えるので、安倍政権は都合がいいし、まなじ議論なんかされたらたまらない」とはっきり言えばよいものを。
最終段落の≪ここで引いてはいけない≫でも、旧来の自民党を「なあなあ」と揶揄し、安倍首相の行為を英断(直接、表現はしていないがそうとしか読めない)として褒める。
ここまで岡崎氏は、「私の知る限り」「専門外の私」「私の直感では」ととにかく逃げて、あいまいにして反論されることを避けてきている。ここに来て「なあなあ」VS「英断」を「分析」と表現するが、背景を唯一、帯野久美子氏の言説においているこの箇所のどこが分析なのだろうか。読者をバカにするのもいい加減にしていただきたい。しかも出典となった新聞の名前、日付も記さないのは卑怯である。
その点、まだ屋山氏の方は論旨が明確だ。氏は「戦後レジームからの脱却」に同意していること(「防衛庁の省昇格」「教育基本法改正」「国民投票法」もその一環であるが、「官僚内閣制」を「議院内閣制」に糺すための「公務員法の改正」をその代表と位置づけている)を明示している。また今後の課題としての「格差是正」も提示していて読みやすい。戦後レジームの可否は議論になる。また縦しんばこれが正しいとして、ではこれらの法案の内容はそれにふさわしいかも議論が出来る。しかし、岡崎氏の言説は議論にならない。言いたいことを不明瞭に表現し、根拠もあいまいにし、ただ自説を擁護するだけの言説だからだ。
金の不始末は、公僕たる議員の大きな失点だが、言説の「ブレ」と論として不成立な言説を、さも論のように見せることは言論人として致命的ではないのか。
これを不用意に掲載した新聞社の脇も甘すぎる。この文章は産経が目指している安倍擁護論ではなく、アメリカ大好き論でしかない。この空虚な信念を、言説として「正論」の名の下に載せるべきではないだろう。
ぜひ岡崎氏に求めたいのは、「アメリカ大好き」なら素直にそう書いてほしいということである。さも論理がそこにあるように言いぼかしたりなどせずにである。
どうも最近世の中は、このように確からしくもない言説が大手を振っているように思う。この漠然とした不安が、漠然としていたので何も書かないでいた。この岡崎氏の言説に触れて漠然さが一掃された。我田引水や保身の曖昧さが目に付いていらいらしていただけなのだ。この点では、氏の文章に感謝している。
さて、こんなことを書いているうちに、赤城農水相が更迭された。確かに金の問題があったことは確かだが、どう見てもスケープゴートである。守るはずではなかったのか。
安倍首相の「ブレなさ」を美点とした岡崎氏が今後この行為をどう擁護するのか、楽しみである。出来ればマスコミや野党議員の追及の下品さとかは言ってほしくない。ブレたことそのこと自体に言及してほしい。