毬藻
あなたが父親であるということなんですか。
静かにそう言い放ったが、少なからず私は動揺していた。しかしそれを見せまいと、私はクライアントの顔を見つめた。クライアントは私の胸元を注視していた。予定より少し早い来訪だったので、私はあわてて締めた濃いグレーのネクタイの結び目が気になって、右手でそれを少し直した。グレーの地にピンクとパープルのドットが打たれたネクタイだった。クライアントは革張りのカウチに深く背をもたれて、その視線は動かなかった。彼の相談は明確だった。彼は父親なのだという。それは誰の父でもなく、紛れもなく、彼自体が彼の父親なのだというのだ。
話はこうだ。今三十七歳になる彼は、二年前、三十五歳のときに、実の父親と入れ替わったのだという。父親は今も存命で、彼の実家で悠々自適な老後を過ごしている。でも彼は自分が確かに父親なのだという。これはまれなケースではない。大体において、人間の欲望は他者によって充足されているのだからそれは不思議なことではない。彼の欲求の何がしかが、彼の父親によって代行されて充足されているとするならば、彼が自分を父親だと感じることがあっても、別段奇妙な話ではない。女の子に人気のアイドルの曲の振り付けを懸命に覚える男の子のようなもので、そこに明確な彼と私の分別が成り立てば、それは格別異常な心理なのではない。私はこのことを如何に平易で、日常の会話と温度差のない言いようで彼に伝えるかを腐心して彼のことばを待った。しかし、彼のことばは違っていた。自分は父親自身であって、父親が本来の、多少本来とは言い切れない部分もあるが、自分なのだという。彼らは三十五歳を境目にして、相互にその人生を交換しているのだという。息子である我が眼前のクライアントは三十五歳にして彼自身の父親の三十五歳当時と入れ替わり、三十五歳の父親は、彼の息子の三十五歳の姿と入れ替わったのだという。もう少し補足すれば、今、おそらく彼の家の居間で昼寝をしているだろう父親は、彼の息子の三十七年後の姿であるという。この点が私には少し奇妙だった。もし、彼が七十歳の知恵と経験を持ったまま、三十五歳の若い体に宿ったのであって、彼の父が労働に疲れた三十五の精神を七十歳の体に宿して、以来、居間でワイドショーやドラマの再放送に見入っているのであれば、それは先にも述べたとおり、別段何の不思議もないごく平坦な錯誤だ。だが彼が言うのに、三十五の父親は三十五の彼の身体に宿り、七十の彼は父親の七十の身体に宿っているのだとすると、明白な矛盾がある。なぜなら彼は未だ三十七歳で、七十歳という年齢を経験してはいないからだ。三十五歳の人間がいきなり七十の人間を演じることも難しいしし、なりきったとしたらそれは悲嘆しかないはずだ。私は彼に再び、初めてのクライアントに身元の確認をするように、名前と年齢と住所を尋ねた。すると彼も初めてのクライアントが、申し合わせたように、離職経験者が再雇用時に面接を受けるようにおどおどと、彼自身の名と、三十七歳という年齢を口にした。
私は彼をいぶかしく眺めながら、あなたはあなたの父親の名でなくあなたの名を名乗り、あなたの年齢を口にしているんですよと諭すと、少し視線を下げて苦笑した。そうして私は私ですよと言った。彼にとって名前は記号であり、年齢も現行の自分に付与された年齢なのだという。そうして彼は彼の人生を語った。
彼の生まれた家は旧家で、もう三百年もその土地で暮らしているらしいのだ。その家の長男として生まれた彼は特に何不自由なく育った。彼は決して何かに秀でていたわけではない。勉強も運動もごく平均的な少年として育つ。少々腕白な連中と仲間になって、時々近所の大人から叱責されることはあったらしい。その後、中学へ進み、その腕白少年たちとの絡みで、ガラスや掃除用具などを破損させ、学校に親が呼ばれたのが、唯一の目立った事件だった。彼は高校へ進み、大学へ進んだ。どこにでもある人生だ。大学を卒業して、地域の銀行に勤務し、上司と父親の紹介で、のっぺりとした表情の薄い、才媛だと評価のあった女と結婚する。そうして二男を儲けて、家業を継ぎ三十五歳となった。三十五歳になったある日、ふと気がついてみると、自分の妻である女があののっぺりとした才媛などではなく、ふくよかな自分の母の、記憶に鮮明にある若い頃の姿になっていたのだが、別に驚きはしなかったという。なぜならそれにはある種の必然感があり、その才媛と母の違いは徐々に数年をかけて明確になったからだという。
一方、彼の父は幼年期に戦争を体験した以外は特にこれといったこともなく、息子とは違い、やや女性的なところがあって、人にお嬢様と揶揄されることもあったが、旧家の息子にふさわしい国立大学を出てすぐに家業を継いだ。そこからの手腕はとても鋭く切れ味のあるものだったので、やはり三十代半ばでその家業を運営する立場となって現在に至るのだという。
彼は父親のことをあまり語らなかった。だが入れ替わったことに違和感はなかったという。気がつくと自分は自身の父親の生を、彼の語った戦後ではなく、この二十一世紀の現在に生きていて、彼の父は彼の壮年期と老後を、すでに三十七年も生きているのが現状らしい。しかも彼の妻は元来ふくよかな女であるらしいし、すでに他界した母親もまた違うタイプであると彼が語ったので、私は彼の錯誤が破綻しかけていること、正常な感覚を取り戻してきつつある感触に歓喜しつつ、表情を変えずに、そのことを抑揚のない日本語で発音した。
すると彼は、自分の妻は、本来はのっぺりとした才媛だと繰り返した。私は吹き出しそうになった。それはその女が中年太りになっただけだと快哉を叫ぼうとしたが、当然それはせず、小声で、お太りになられたとか、と告げた。すると、彼は明確にそれを否定した。彼の妻は今も健在で、三十四歳になる妻は、彼の父との間にできた第三子を腹に宿しているのだという。実感の籠ったことばだった。では、と私は口にして、彼が実は彼の父親との実感の錯誤だけではなく、それ以外の第三者との錯誤を有しているのだと思って、ことばを濁した。すると彼は、自身の手を撫でて、この体の感触が自分ではない、自分が加齢により変化したのではない実感があることと、父に触れたときそこには明らかに自身の加齢による変化の実感があることを私に伝えた。私は彼のことばにただ相槌を打つと、彼はさらに続けて、自分には本来なかった鋭利な刃物のような感覚が現在備わっていることと、父親の中に周囲を見て、平均的な選択を好みながらもどこか子どもじみたところがあることを告げて、「痴呆とか、遺伝の形質とかではなく」ということばで話を終えた。思いの外、彼は冷静でインテリでもあるらしかった。
私は彼の錯誤がかなり根深いのを感じた。私は彼から視線をそらし、サイドテーブルにおいてある水槽を眺めた。夏の終わりの日を受けて、毬藻の入った水槽にはいくつもの気泡がこびりついていた。すると彼も私の視線を追った。二人は毬藻の吐く気泡に視線を置きながら、しばらくは沈黙した。彼の語る不思議はそこからさらに展開を見せた。彼は世界を語りだした。
彼の語る世界はこんな風だった。この街に百万の人間がいるとすると、この街には少なくとも百万の時間や世界、言い換えれば自分というものが存在する。なぜならばそれだけの数の主体が存在するからだ。なら自分の世界が一つかといえばそうではない。自分自身だって、少なくとも自覚できる性質の差はこれも無数にある。それを類型に分類すれば語ることのできる性質になる。では語ることの出来ない部分はどうか。それは私には自覚できないが反映されている。こうして考えると私は無数に存在する。しかも実際に時間は自覚の上では直線的だが、存在とすれば螺旋形で、時間が螺旋に進行するということは、実際には進行も遡行あるということになる。また螺旋を縦に見れば、同時にいくつもの現実が存在する。その現実は自覚できる現実の似像であることも多いが、時に人間とは思えない異形の生き物の展開する現実もある。今私がこうして語っているときに、私が通常の私に見えているとするならば、あなたと私が異形の異世界の現実と相互に通じていることを見落としているのかもしれないと。
私は彼のことばが急に哲学めいていくことにもう一つの快感があった。ああパラレルワールド。ああ幻視者の現実の混乱と錯誤なのだと、私は彼が螺旋ということばを口にするたびに快楽を覚えた。人間の感覚などは、その根源は曖昧である。ゆえに幻視が起きる。ただ、幻視は無効なわけではない。トポロジーの学説など、空間に物体を幻視しなければ到底説き得ない学説すらもあるからだ。美術家の幻視も有用だが、功利的ではない。ただ逆に無効な幻視も数限りなく存在しているのだと、私は視線を落とし、息を潜めながらそう考えた。時間を論理的に表現することなど思想史の一大難問なのでここでは言うまい。しかしながらパラレルワールドという彼の視座はおおよそ彼の外には現実感を持たないものだと、極めて冷静に私は考えていた。そうして、彼に現実の感覚がなくなっているのではないかと告げた。これも極めて職業上の口調だった。すると彼は初めて口を開いた。
「わかってもらえないようですね」
彼は床に置いた黒いブリーフケースをごそごそとまさぐると、そこから二葉の写真を取り出した。一枚は旅行でのスナップなのだろう、見晴らしのいい高台で彼と彼の妻らしいふくよかな女が子どもを挟んで立っていて、背後から、しまらない顔で笑う老人が彼の肩に手を置いていた。これが彼の父なのかと私は合点がいった。もう一枚は、結婚式でのスナップらしい。タキシードを着た男とのっぺりとした顔の、目元の輝きが聡明そうな女がいて、ふくよかな中年の女と、むしろ彼に面影のよく似た壮年後期の男がその両脇ににこやかに立っていた。タキシードの男はいたずら好きそうな顔で微笑み、横の老年に差し掛かった男は心の芯に剃刀の鈍い光を持った目をしていた。
私は驚愕した。背筋の下の方から眩い戦慄がぐいぐいと押し上げ、首の脈が膨れ上がるのを感じていた。あまりに顔が紅潮したので、私は再びサイドテーブルの毬藻を見た。相変わらずややにごった水の中に無数の気泡が浮かんでいる。私はその気泡の海に棲息する微細な生き物を夢想した。灰色の体に無数の結節を持ち、表面はまばらな剛毛で覆われたその生き物を夢想した。前の手は大きな鎌になっていて、さらにいくつかの手と脚を持ち、剛毛の汗腺からは粘々した体液が絶えず噴出し、その体の結節の鋭い部分から、絶えず滴っているのだ。その生き物は竹槍のような禍々しい嘴を持ち、その嘴の中には無数の細かく鋭い歯が隠されていた。私の複眼はその時彼を一点に捉え、その禍々しい嘴を開いて深緑色の舌をべろりとむき出しにした。そうして複数の結節で出来た腹の、生殖器の根元に近い下部からその結節を段々に波打たせ、生臭い溜息を深く吐いた。
すると彼は苦笑しながら、その二葉の写真をブリーフケースにしまいこんだ。ブリーフケースの中は写真でいっぱいになっていた。私は深く息をするたびに毛穴からにじみ出る大量の粘液に苦慮しながら、さらに複眼の焦点を明確にした。
「今日は、先生は不調なのでしょう。私は狂気なのではなくて、この私の発見が生み出した混乱をわかっていただきたかったのです」
かれはそう言うと立ち上がって、濃いグレーのネクタイを軽く直して、黒いブリーフケースを手にした。
「また、今度参ります」
そういうと、彼は深くお辞儀をして、部屋を出て行った。
私は狼狽した。彼の錯誤が致命的な伝染病のように自分を、自分の現実を侵していることを恐れた。だから、私は部屋にある研究書や研究紀要、専門雑誌をあさり始めた。だがなかなかこうした事例は見つからなかった。あきらめかけたその時、研究論文ではなく症例の治療体験をつづった随想の中に私は今回とよく似た事例を発見して安堵した。筆者はその事例についてこう記している。
自身がパラレルワールドの住人であったり、隣人や近親者の生まれ変わり、または入れ替わりあったりという複数の錯誤が混迷のうちに立ち現れることがある。これはあくまでも錯誤であり、名付けがたいが病理である。またそれに伴って、自身が異形のものであるとか怪異であるとかいった幻視が発生することもあるが、それは明らかに錯視であって現実ではない。確固たる現実を喪失していると断言できるものである。それには論理的に考えて明晰な矛盾があるだけではない。それが病理である確たる証拠が存在する。
それを詳述する必要はない。ただ単に断言できるものである。なぜなら、この錯誤において、私はあなたであるからだ。
了